■人がつながるまちづくり まちづくりとしてのコンバージョン
1.骨粗鬆症化する街
少し乱暴な言い方かもしれないが、今の都市は骨粗鬆症になっているのではないか。人体にたとえれば、血液は人の流れ、筋肉は産業経済活動、骨は土地と建物。それぞれがバランス良く健康でなければ長生きはできない。人口減少時代は現実の問題となりつつあり、まちづくりの方法も大きく転換が求められている。人口が減っても経済活動が維持できて、安心して暮らしていければ良いのだが、今までと同じような高カロリー消費型の体質のままでは、バランスが崩れてしまう。
人が減れば床は余るのは当然だが、その余剰分はどうなっているのだろうか。地方都市や山間地域では早くから指摘されてきたことだが、東京都心で空間に隙間が見え始めたのは今から10年ぐらい前だろう。縮小時代にあっては、隙間とストックを合理的に活用することが課題になってくる。コンバージョンそのものは建築デザインの範疇であるが、SOHOまちづくりは、空間の余剰部分、隙間を意図的に埋めながら、なおかつ、既成市街地にある資源を活用し面として広げていくものだ。
都市を劇的に変えるのではなく、地域の歴史的な文脈や人のつながりを保ちながら、ちょっとずつ動かしていくことが重要だと思う。
2.人が街を再生し、街が人をインキュベートする
都市再生特別措置法が平成14年(2002年)に施行され、神田・秋葉原地域にも都市再生緊急整備地域へのインセンティブが与えられた(※1)。指定地区内で再開発が進んだが、すべての街区で再開発ができるわけでもなく、開発エリア外の中小規模のビルは、バブル期に建替更新したものと、老朽化ビルがとり残されつつあった。
東京都心で隙間が話題になったのは、超高層オフィスの大量供給の影響で、周辺部の既存中小規模の空きビル増が懸念された2003年頃だ。
バブル期に更新された建物は、建設ローンも支払い途中で、賃料を下げることができずテナントが退出、ビルオーナーは返済が破綻、また古い建物では、ITやセキュリティ設備が不十分で入居者が付かないという状況がはじまっていた。その結果、全体的に空室率は上昇し、街の活気はなくなり、中小ビルのオーナーは、厳しい状態に直面していた。
建物の更新、解体・新築には相応の資金とリスクが伴う。再開発事業等で容積率をアップし、余剰床を売却あるいは賃貸によって事業費を回収する手法は、リスクを吸収できる事業主体と需要が確実に見込まれる場所でしか選択することができない手法となってしまった。大規模再開発では、莫大なコストを要するだけでなく、その地域の床需要、ポテンシャルを一度に使ってしまい、周辺が取り残されてしまう場合が多い。
たとえば秋葉原で行われた土地区画整理事業には、基盤に346億円、民間ビル建設投資に1300億円、経済波及効果は3660億円と試算されている(※2)。しかし、再開発後の床は高額になるため、小規模な事業者、これから起業する者がテナントになることは難しく、隣接地で同じような再開発を連鎖的にすることも難しい
こうした背景の中、建物をコンバージョンしながら、街全体がインキュベーション施設になるよう、オーナーとテナントを結びつける、SOHOまちづくり・家守事業という仕組みを考え出した。(※3)
家守事業の発想はシンプルだ。新しい建築物をつくらずに、人の活動を活発化させることが目的なので、建物にはできるだけお金をかけないコンバージョンで賃料を低くする。人を呼び込む工夫をする。点から面に広げる。これだけである。大きなコストを投じることなく小さなバージョンアップの積み重ねで街の魅力を深めていくことができる。
かつての神田地域は、日本橋の大店に対して、地方から東京に来て一旗あげる場所、出世を目指して多くの人が集まる場所であった。今のように情報網がないので、多くの人が現地に足を運び、物と情報の交換、集散する場所だった。市場では、少しでも高く売れるように熾烈な取引があり、良い品物をつくるようにがんばることで、大きく成長した企業は多い。まさに、街全体が人を呼び込み、育て、輩出する苗床であった。
3.街と空間をシェアする
そうはいっても、若者や起業したばかりの事業者にはお金がないので、いきなりかっこいいオフィスには入れない。大規模な建物であれば、働いたり生活するための基本機能を内包することができるが、規模の小さい建物では難しい。たとえば、ミーティングするスペースは、ワンルームなどの小さなスペースでは確保できない。そこで、空間をシェアするという発想で、建物同士が相互に機能を補完すれば、1棟の大規模なオフィスに匹敵する機能がもてるはずだと考えた。既成市街地には、生活するための機能集積とストックがあり、なにより面白く、魅力的な地元の人たちがいる。会議やコピーなど利用頻度の少ない施設や機能は3分ぐらい歩いて使えるところにあれば不自由はないし、既にある飲食店やサービス業へもプラスの影響がある。街を歩く機会が増えれば、新参者とまちとの接点が自然に生まれる。
繊維問屋の集積地である岩本町、須田町界隈には、生地からボタン、テーラーまで紳士用スーツを街中で仕立てることができる分業体制が整っていた。その産業クラスターを体験すべく、スーツをつくってみた。まず、生地屋さんで生地を選ぶ。高級百貨店にあるような生地も、ここではそれほど高くない。そしてテーラーでオーダーメイドのデザインを注文する。ポケットの位置、大きさ、襟のカタチ、どんな注文にも応じてくれる。採寸、仮縫い、そして完成。その間、街の中をぐるぐる歩く。話をする。時間がかかるものの、ぴったり体型にあったスーツは着心地が良く、しかもリーズナブル。太ったら直してあげるからまたおいで!というおじさんの声が懐かしい。こうした産業の連関とまちづくりを結びつけたいと考えた。
4.大規模開発の傍らでの小さな試み
都市の活動を支える産業の基盤は何だろうか。土地建物の空間をどのように使うのか。都市計画でいえば土地利用計画ということになる。産業でいえば、人の育成、製品開発、ビジネス化である。
地方都市の場合、中心商業地を担っているのは目に見える小売業であるが、都心の商業は卸売業が主役でわかりにくい。下町エリアである東神田、岩本町、日本橋馬喰町、日本橋小伝馬町をみてみると、事業所の数では小売155事業所に対して卸売1,048事業所、販売額では、小売267億円に対して卸売18,880億円と圧倒的に卸売業が多い。しかし、卸売業は2002年から2007年の5年間の間に事業所は27%、販売額は12%減少をしている(※4)。地価が上昇する中で、大きなスペースを必要とする卸業、問屋機能は規模を縮小し、空間の隙間を生み出している。
神田地区の卸売業の変化
秋葉原はAKB48とメイドカフェ、オタクで有名になってしまったが、戦後の露天商から繋がる電子部品、家電、PCまでその時代をリードしてきた産業が積層した街だ。それぞれのDNAを内包し、組み込み進化していく生物のようである。実は、秋葉原も産業の主力は問屋機能が担っている。秋葉原地区(外神田1〜4丁目)の小売販売額は1,829億円だが、卸売販売額は15,356億円でやはり問屋が産業の基盤であることがわかる(※4)。
この秋葉原にあった青果市場跡で大規模な土地区画整理事業が行われ、ITセンターに変貌した。ここからほど近いところで下島ビル再生事業、SOHOまちづくりは始められた。SOHOまちづくり事業は、小林重敬先生を座長とする検討委員会での議論をきっかけに、次第に具現化していったものだ。
下島ビル再生事業は、民間から千代田区に寄贈されたビルを、建物改修からテナント集め、その後の管理運営まで含めた事業コンペとして2001年に実施された。13団体の応募の中から「リナックスカフェ」が選定された。リナックスカフェは、大規模再開発の傍らでオープンソースOS Linuxを基軸に、ベンチャー企業、個人のプラットフォームとなり、秋葉原の拠点となった。この遊休施設活用モデルは、その後、建築やデザイナーの集まる「REN-BASE」や「泰岳ビル」、ビジネスクリエイター向けの「千代田プラットフォームスクエア」、廃校を文化芸術拠点にした「アーツ千代田3331」へと継承された。
5.人を呼び込むきっかけ
空きビルの顕在化に対して家守事業というコンセプトを提示した頃、アート、デザイン分野の人たちとの出会いからCET(セントラルイースト東京)というイベントがはじまった(※5)。東京でのファッションやデザイン発信源は、渋谷、青山といった、いわゆる西側エリアが中心で、東側の神田、日本橋エリアは、その生産を支える職人や問屋が集積地する、江戸から続く伝統文化を受け継いできた街だ。この東側地域、セントラルイーストにアーティストやデザイナーが注目した。
CETでは、空きビルや空き室を会場に、様々な展示やパフォーマンスが行われた。03年には40箇所だったものが、05年には70箇所が会場となった。その後も年に1度開催され、8年間続けられた。街という現実空間で何を表現し、メッセージを発することができるのか、手弁当、いや自腹を切って集まったメンバーが企画やアイデアを持ち寄り、実行するという自己責任で運営された。プロデューサーは、ベクトルと初速度を与えるが、そのあとは各自多方面に自由に飛んでいく、遊び感覚抜群で刺激的な運動体は、時代の閉塞感の中からゲリラ的に発生したムーブメントとなった。参加アーティスト、学生インターンも年々増え、動員数は3万人から8万人へと大きくなった。そして2006年からはイベント期間だけでなく、日常的の姿としてこの賑わいや面白さを意図すべく、2010年まで続けられた。(※5)
街を訪れる人が増え、その結果、街の様相は大きく変化した。イベント後に新たにできたショップは、コンテンポラリーアートギャラリー22箇所、雑貨、飲食、自転車ショップほか60件以上にのぼる。(※6)そればかりか、当時学生インターンとしてスタッフに加わっていた人たちが、町会のお祭りに参加したり、消防団に入隊した女子まで現れ、インターン同士が結婚してしまうという予期しなかった喜ばしい出来事もあった。関わったスタッフ、足を運んでくれた人々や進出ショップは、これから新しいライフスタイルを吹き込んでくれそうだ。
特筆したいのは、この表現の場となったのが、街であり、空きビル、空きオフィスであり、道路や地下道、路地など、あらゆる隙間だったことだ。また、この無茶苦茶な催しが可能となったのは、地元町会コミュニティの全面的なサポートがあったからこそ実現できた点だ。人も少なくなり産業は衰退し、このままでは・・・と考えていた地元のニーズとクリエーター、デザイナーが街や人に触発され、地元のコミュニティ、地場企業と結びついたプロダクトやショップを様々なかたちで実験し、着々と実現していった点にある。自分たちがやりたいことを実現していく中で、街は自然と活力を取り戻していく。
6.ソーシャルビジネスの拠点に
CETに集結したメンバーは、このエリア内に事務所を移したり、住居を移したり自らも街のプレイヤーとなっている人も多い。私自身は、同じ鉄道路線ではあるが、反対側の高円寺という場所に事務所を移転した。神田〜秋葉原〜高円寺はJR中央線で繋がっている。高円寺は、東京の中でも若い人が多く住む個性的な街だ。古着屋をはじめ、カフェ、ライブハウスのほか、個性的な雑貨を扱う店、居酒屋がたくさんあり、物価が安い。
「高円寺コモンズ」は、(株)地域協働推進機構が運営するコラボレーションオフィスである。私もこの施設の立ち上げから関わり、現在もここで仕事をしている。元々は、ビジネス専門学校が使っていた建物だが、数年間空きビルとなっていた。オーナーはJR東日本都市開発だが、高架下に連なる既存の飲食店街に新しい業態を誘致したいという要望とSOHOの活動拠点を創りたいと考えていた(株)地域協働推進機構が結びついてこのプロジェクトは始まった。
建物の規模は1,2階合わせて約100坪、JR中央線の高架下という少々変わった場所と高円寺という若者が多い街に2009年4月にオープンした。1階は応接、スタジオ、会議・ワークショップルームと共用のワークスペース、2階は3社が利用する個室で構成されている。ワークショップルームでは、プレゼン用の機材やネット映像を配信できる機材を備えており、様々なイベントやセミナー会場として利用されている。
SOHOと言えば、個人から少人数で働くデザイナーやクリエイター、士業が多いが、ここはソーシャルビジネスを担う人が多い。職種は様々で、教育支援NPO、高齢者福祉団体、WEB、マーケティング、エンジニアの交流カフェ、ソーシャルシネマ監督、タレント事務所、PCスクールなど14社がシェアしている。それぞれの法人・個人は個々に自立して活動しつつ、専門知識や技術を地域社会に活かしていく、あるいは地域の課題に応えていきたいと考えるソーシャルビジネスの担い手である。現在、個々を結びつける活動として「高円寺みらい塾」と称した共同企画を考えている。今後、地元商店街や行政、NPOとも関わりながら具体的なプロジェクトを仕立てて行くつもりだ。
(このページは名古屋都市センター機関紙「アーバンアドバンス」寄稿原稿を再編集したものです)
参考資料
※1)都市再生特別措置法を活用した都市開発状況、国土交通省資料
※2)秋葉原付近土地区画整理事業の整備効果の検証結果について、東京都都市整備局
※3)「中小ビル連携による地域産業の活性化と地域コミュニティの再生」~遊休施設オーナーのネットワーク化と家守によるSOHO まちつくり施策の展開~、2003年3月千代田 SOHO まちつくり推進検討会
※4)商業統計調査
※5)CET:http://www.centraleasttokyo.com/
※6)EAST TOKYO MAP、2011年、(株)アンテナ
※7)平成20年住宅土地統計調査
※8)平成20年杉並区環境白書